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【市指定文化財】 楢ヶ原供養塔
言い伝えによると、永禄2年(1559年)松山城主平山越後守忠智が肝付兼続と字尾峠で戦い、戦死したといわれ、戦死した場所に供養のため建てられたものと伝えられています。
元は現位置よりも南にありましたが、道路改修の際に移転されました。
志布志市の文化財マップはこちら<外部リンク>
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言い伝えによると、永禄2年(1559年)松山城主平山越後守忠智が肝付兼続と字尾峠で戦い、戦死したといわれ、戦死した場所に供養のため建てられたものと伝えられています。
元は現位置よりも南にありましたが、道路改修の際に移転されました。
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